電車を降りて改札を抜けると、私の周りの人は次々に早足になった。手に持った荷物を胸の前に抱えて走り出す人もいる。
 春を待てなかった冷たい雨が、気まぐれに降ってきたのだった。
 アスファルトを濡らすあの独特の匂いが鼻について、私は思わずマフラーの中に鼻元まで顔をうずめた。まだ彼の部屋の匂いが微かに残っているマフラーに。
(どうして誰もかもが私に冷たくするんだろう。もう充分に私の心は冷たく凍えているのに)
 ずっしりと重たい心のせいで雨を避けて走る事もできず、私は静かに降る雨の中をとぼとぼと歩いていた。周りにはもう誰もいなくなっていた。
「……」
 隣を走る線路を貨物列車が通りすぎた。規則的な音を耳に残してやがて遠くなっていく。
 その時。誰もいないはずなのに小さく声が聞こえた気がした。
 え、と思って辺りを見渡しても、道には猫一匹見当たらない。道向こうのコンビニの明かりが妙に目に染みた。
(きっとあの入り口が開いたんだわ)
 軽くため息をついて、私は歩みを早めようとした。
「強がりだな」
「無理しちゃってさあ」
「…うるさいわね」
 聞こえた声に口答えして、はたと気付いた。
(誰…?)
 誰もいないはずなのに。コンビニで無遠慮に流れる最新曲かと思ったのに。
「泣けば? 悲劇のヒロインになれるよ」
「この暗闇の中じゃ誰も気付きゃしないよ」
 周りを見渡しても誰もいない。夜の闇に冷たい雨が降りてくるだけ。
 そして。声は私の立つ場所から聞こえた気がした。
「雨?」
 コートの上を雨の粒が滑った。けれど、雨粒の殆どはすうっと生地の中に消えていく。
(何だって言うのよ)
 雨が、雨粒が話しかけるなんて事があるわけない。一体どうして…。
「泣けないの?」
「もう強がらなくていいんだよ」
「強がってなんかないわ」
 ただ、覚悟ができていただけ。納得しちゃっただけ。彼の気持ちに気が付いてしまっただけ。
「もういいのよ…」
 雨粒なんかに話しかけている自分を心の中で笑いながら、私はまるで自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいった。
「私なりに頑張ったんだから。幸せだった時もあるの。…幸せだったことばかり覚えてるもの」
「でも裏切られたんだよ」
「捨てられたんだよ」
「……」
 悲しくなるようなことばかり言う。心の蓋を固く閉ざして溢れないようにしていたものが、出てきたいと駄々をこねているようだ。 何かを伝って、目の奥の方がじわりと熱を持った。
(ヤバイ)
「泣いちゃいけないのよ、私は」
「何故?」
「楽になれるのに」
「我慢することないよ」
「我慢なんかしてないわ。でも泣いちゃいけないの」
(だって泣いてしまったら本当に終わりになってしまう…!)
 私の声しかしない道の横を、また貨物列車が走った。軽やかな音が私をぎしぎしと揺さぶる。目がぐんと重くなった。
「泣けば?」「泣けば?」
「泣いちゃえ」「泣いちゃえ」
「泣いてイイよ」「泣いてイイよ…」
「…うるさい!」
 我慢できず、私は大声をあげた。頭の中で私の声が撥ね返ってこだましている。
 声はそれきり聞こえなくなった。
 気が付くと熱いものが私の頬を伝っていた。冷たい雨粒とは明らかに違う。私の心がたくさん詰まったものだ。
 相変わらず静かに降る雨の中、私は次々に溢れる涙を止める事もできず歩いていた。
(ああ終わってしまったんだ…)
 あの声はきっと私の心の中の声。閉じ込められた心の叫び。雨に誘われて出してしまいたかった私の気持ち…。
 街灯の下、薄明かりで見たコートは雨粒が染みた水玉模様だった。
おわり
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