目が覚めた時、私は泣いていた。静かにそっと目から涙がこぼれていた。
 そして、とても切なかった。
―――モウイチドアイタイ。
 体をその言葉が貫いた瞬間だった。私はその夢の記憶のほとんどを失ってしまった。
 あわてて飛び起きる。
「あなたは誰?」
 口に出して問うてみた。それでも何も思い出せない。
 ただ心が激しく泣いているだけ。
 あれほど鮮明だった夢の中身が一瞬で無くなってしまった。
 いや、細切れの記憶は残っている。グループで行動していたこと、何か乗り物に乗ったこと、それから‥‥。
 大切なことが思い出せない。多分この切なさの原因。それは分かっている。
 しばらくして、体が冷えていることにようやく気付いた。上に何か着ようと周りを見回す。
 そして、何かを思い出した。
「あの人は誰?」
 そうだ。途中でグループから別れて、あの人と二人で行動したんだった。乗り物を降りて、服を買って‥‥。それから?
 ‥‥そこまでだった。朧気な記憶だけ残って、あの人の名前も、顔さえも思い出せない。
 切なくて涙が出るほどなのに。今にもあの人に縋り付きたいほどなのに。
「あなたは誰?」
「何処にいるの?」
 呪文のように繰り返す。それでも、あの人の黒い影は少しも解けなかった。
「会いたいよ‥‥」
 また目から涙があふれてくる。瞬きすると頬に流れた。
 私は一体どうしたんだろう。今までこんなに夢に縛られたことはなかった。しかも、誰かも分からない夢の中の人に。
 好き、だったのだろうか? 夢の中で。
 だからこんなに切なくなるの。
 でも。
 あの人のことを何も覚えていないくせに、私には妙な確信があった。
―――あの人は大好きなあの人じゃない。
 それだけは確かにはっきり言えた。どうしてだろう?
 それより、あの人は誰? 私とどういう関係?
 もう一度寝たら、夢に現れてくれる?
 私は混乱したまま、もう一度布団に潜り込んだ。
「あなたは誰?」
「何処にいるの?」
「会いたいよ」
 痛む胸の前で膝を抱きながらそれだけを繰り返し繰り返し呟く。あの人に会える呪文はそれしか知らないから。
 目を閉じても、暗闇が広がるだけだった。記憶が何かを拒むかのように寝付けない。
 耳が感じるのは私の呼吸と窓の外の風の音だけ。でも、意識が邪魔をしてあの人の元には行けない。
 幾度も寝返りを打った後、しばらく時間が過ぎて、私は眠ってしまった。

 次の日目が覚めても、夢の記憶が蘇ることはなかった。それどころか切ない心を残したまま、ますます形が崩れていく。
「あなたは誰?」
「会いたいよ」
 それでも、呪文を繰り返す。何か手がかりが得られるかもしれない。それだけを願って。
 曖昧な記憶は、私に少しずつ情報をくれた。薄れていくことのお詫びなのだろうか。
 緑色のシャツ、高い背。それから、男の人らしい大きなごつごつした手。
 私はあの人の側で安心していたのだ。この人と一緒ならきっと平気。そう思っていた。と思う。
 何処までが本当のあの人の姿なのか確かめる術もなく、私は想いを募らせていた。
 会えるかもしれないと昼間から布団にくるまった。
 大好きな彼への想いと似ているような違っているような、そんな複雑な気持ちが私を支配していた。
 あの大きな手に頭を撫でて貰ったのか、抱きしめてもらったのか。それとも手を繋いで貰ったのか。
 何も思い出せない。でも、考える度に切なくなる。
「あなたは誰?」
 もう一度呟いた。
 その時、ある疑問が頭に浮かんだ。
「私はあの人に会って何をしたいの?」
 分からない。顔を見て、声を聞いて。
 違う。私はそんなことをしたいんじゃない。ただあの人の側にいて安心したいだけ。
 だから、この胸の痛みが分かるならもう一度夢を見させて。
―――会いたい。
 目を閉じているのに、涙が出てきた。胸が騒がしく鳴っている。
 切なくて切なくて切なくて切なくて‥‥。
 感情だけが高ぶって夢の記憶を理想化しようとしていた。顔のないあの人が、私の理想の人へと変わっていく。 でもそれはあの人じゃない。私が会いたいあの人じゃない。じゃあ、私が会いたいあの人はどんな人?
 頭で気が遠くなるほど無意味なやりとりを繰り返し、私はまた眠りに落ちていった。
 口の中ではあの呪文を繰り返しながら。
「あなたは誰?」
「何処にいるの‥‥?」
「‥‥会いたい‥‥」
―――アイタイ。

 こうして消えた記憶が幾つあるだろう。
 初めて会った人と何処かで会ったような気がする度に夢と現実が混ざり合って、失われた記憶のほんの断片が戻ってくる。
 夢の中のあの人は、現実に現れる時にどんな記憶を連れてくるのだろう。それは今の私には分からないことである。
おわり

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