◆いとしの北条氏◆

鎌倉前期・鎌倉中期・鎌倉後期・・略系図
参考文献 *「朝日日本歴史人物事典」(1994)
北条 時政
ほうじょうときまさ
1138〜1215
宗時、政子、義時、時房等の父。流人・源頼朝を政子の婿にとったことから頼朝に従って挙兵。石橋山の戦で長子宗時を亡くすも、甲斐源氏を誘って再び軍に合流。平家滅亡後は頼朝の代官として京へ登り、守護・地頭の権限を朝廷に認めさせた。しかしその後は鎌倉に戻され奥州合戦に参戦。頼朝の死後、まだ若い2代目頼家の親裁権を奪い、やがて頼家の外戚である比企氏と対立を深め滅ぼした。頼家が謎の死を遂げた後、自分の後見する実朝を将軍に据え実権を握るが、子の義時らと路線が合わず、後妻牧の方の娘婿を将軍に擁立しようと計り、伊豆に引退させられた。
*私見* この人、平清盛の長子重盛と同じ年なんです。ショックでした。…じゃなくて、イメージもその生涯も対照的で、「このじいちゃんどんなこと考えて生きてきたんだろうな」って思うと最期が少し哀れです。
北条 宗時
ほうじょうむねとき
?〜1180
時政の子、政子の兄。義兄頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦で敗死。時政や弟妹たちを嘆かした。
*私見* 「お兄ちゃん」です。あの政子が頼りにしたであろう大きな人。惜しい人を亡くしました。もし生きていたら今でも鎌倉幕府が続いていたかもしれません(大げさ)
北条 政子
ほうじょうまさこ
1157〜1225
父時政が大番役で在京中、流人頼朝と恋に落ちついには父に認めさせる。二人の間には大姫、頼家、乙姫、実朝が産まれた。夫と死別後、後家として大きな力を振るい、頼家の政務に不安を覚えて合議制を定めたりした。子供全てに先立たれた後は尼将軍として実権を完全掌握。承久の乱での演説はあまりにも有名である。弟義時の急死後、その嫡男泰時を執権に据えて北条執権体制の基礎を定めた。
*私見* 別に特別政子が強かったわけじゃない。当時の東女はみんなこれぐらいだったのではないでしょうか? 夫の残したものの為に懸命に戦ってそれで「悪女」とか言われたら堪らない。もっと胸張って欲しいです(なんて私に言われなくても胸張ってそうですが)
源 頼朝
みなもとのよりとも
1147〜1199
平安時代末期の武将源義朝の三男。13歳で平治の乱に参加、従五位下・右兵衛権佐の官位を受けるが、敗れて捕らえられ伊豆国に流された。以後20年の間流人として過ごす。1180年以仁王事件の余波で命の危険にさらされて、反平家の挙兵に踏み切った。石橋山の戦に敗れ安房国に逃げたが、逆に関東武士団をまとめて鎌倉入りし、その後富士川の戦で平家軍を破り東国に勢力圏を築いた。平家や同族義仲の追捕には異母弟の範頼・義経を遣わし、ついには滅亡させる。奥州藤原氏を討つために出陣した他は彼自身が鎌倉を出ることは少なく、舅の北条時政、京から呼んだ大江広元を側近に用い幕府を運営した。
政子の妹稲毛重成室の供養のために作られた橋の落慶供養の帰りに落馬してまもなく亡くなった。
*私見* 運に恵まれた人。でもその為に政務者として鬼にならないといけなかった。逆に鬼になれたからからこそ鎌倉幕府を起こせたんじゃないかな。今の政治家にもこれくらいの器量が欲しいと思う今日この頃です。
大姫
おおひめ
1178〜1197
政子と頼朝の長女。83年頼朝の従兄弟、木曽義仲の子義高と許嫁になるが、彼は源氏の棟梁争いの人質として遣された人であった。翌年、義仲を討った頼朝の命により義高は入間河原で討死。大姫は悲しみの中鬱病に苦しんだ。その後も一条高能へ再稼の話や後鳥羽帝へ入内の話があったが、京の政変のため白紙に戻り、病がちなままこの世を去った。
*私見* 小さい頃から戦が傍にあった彼女は結局一生我慢の人生だったのでは。僅かな青春が義高と過ごした日々。だからずっと想えたんじゃないかな。私の中では彼女は弱い人じゃないし、普通の女の子です。
源 頼家
みなもとのよりいえ
1182〜1204

乙姫
おとひめ
1186〜1199
政子と頼朝の次女。三幡と呼ばれる。姉大姫の死を受けて頼朝の入内の夢をつなぎ、それは頼朝の死後頼家も継承した。しかし「女御宣旨」を受けたものの実現する前に病死した。京の薬師に毒殺された? 1201年没の説もあり。
*私見* 人の観察力は人一倍あったんじゃないかな、が第一印象です。屋敷の中の空気を読んで、皆が何を考えているかを敏感に感じ取った少女時代。その眼力は兄弟の中で一番頼朝に似てると私は思います。
源 実朝
みなもとのさねとも
1192〜1219

北条 義時
ほうじょうよしとき
1162〜1224
時政の子。政子の弟。頼朝挙兵後は兄宗時が討死したため嫡男として頼朝に従った。頼朝の死後は姉政子と連携をとり合議制の一人にも選ばれる。3代将軍実朝の擁立後、対立を深めていた父を畠山氏追捕事件を契機に退けて執権職を継いだ。有力御家人を次々と退けて勢力を拡大させ、ついには従四位下・陸奥守となるが、反発もまた強く、実朝の死後将軍職の後継問題でごたごたしているのを見た後鳥羽上皇に倒幕を計画される。しかし、政子の演説に助けられ大軍を上洛させてこれを破ると、上皇配流等確固とした処置をとるばかりか六波羅探題を設置し西国の地頭任命を行なう等全国的な支配権を握った。こうして幕府の体制を固めたところで急死。後妻による毒殺とも言われる。
*私見* 小四郎ちゃんは無敵な政治家。でもなんてことはない、シスコンゆえの能力なのです。姉の守る幕府を自分も補佐するぞ、と。だから頼朝にも気に入られるし、勿論政子からも信頼されていたのではないでしょうか。頼朝好きの古株御家人にも一目置かれていたりして。
北条 時房
ほうじょうときふさ
1175〜1240
時政の子。政子、義時の弟。はじめは五郎時連と名乗るが1202年改名。実朝の暗殺後、幕府の使者として親王を将軍として鎌倉に送るよう後鳥羽上皇に要請した。1221年の承久の乱の際甥の泰時と共に再び上京し、そのまま留まった。六波羅探題の始まりである。25年には執権となっていた泰時に鎌倉に呼び戻されて連署に就く。これまた連署の始まりである。以後死去するまでその地位につき、泰時の良き相談相手となっていた。
*私見* ときぼ〜です。湯口先生の影響を受けているので、「いつまでも少年の心を持った人」のイメージがとれません。いいじゃない、彼の人生後半は穏やかに過ごせたんだから。きっと大好きなお酒を飲んで子孫の動きを見守ったのよ。やっくんで遊びながら。
北条 泰時
ほうじょうやすとき
1183〜1242
義時の嫡男。頼朝を烏帽子親としてはじめは頼時と名乗る。改名時期は不明。幼名は金剛。江間太郎と号す。官位は駿河守、武蔵守、左京権大夫等を経て正四位下に至る。北条氏の正嫡として早くから幕府内で重んじられ、和田義盛の乱の後侍所別当に。承久の乱が勃発すると叔父時房と主力軍を率いて上京、そのまま六波羅探題として留まった。父の急死後鎌倉に帰り政子の指示で執権職を継ぐ。翌年長老大江広元、政子が相次いで亡くなったため、連署を置き京の時房を迎えて両執権制を確立した。また評定衆や鎌倉大番を整え、寛喜の飢饉のおりに見せた撫民策は仁政として後世に語り継がれた。1232年には最初の武家法典『御成敗式目』を制定、裁判の公平を期した。一方で畿内大社の悪僧には強硬な態度で臨み、彼らの武装解除を推進。また天皇の後継問題にも介入した。最期は病のため出家、法名観阿と称し翌月没した。
*私見* 生真面目なやっくん。それゆえ年の近い従兄・頼家とは合わなかったのは目に見えて分かる。でも二人とも無い物ねだりで実はよく似てる気が。母親に飢えているところなんてそっくり。晩年少し強引に権力集中を図ったのは幼い孫のため。自分の利欲のためには動けない人だったのかもしれません。…美化しすぎなのは自分でも分かっています。
名越 朝時
なごえともとき
1193〜1245
義時の次男。母は比企朝宗の娘。北条氏の家督である得宗家に次ぐ名越家の基礎をつくる。女性問題で将軍実朝の勘気に触れ一度は駿河国に篭るが、和田合戦の直前に呼び戻され、合戦では敵将朝比奈義秀と奮戦して賞賛される。承久の乱では北陸道の大将として上洛。式部丞、越後守を歴任し、1236年には評定衆となった。兄泰時とは仲が悪く、そのうわさは京にまで届いていたらしい。
*私見* やっくんと比べられてか「まったく駄目な人」と思っていましたが、意外ときちんとしてるのね。それとも負けてなるものかと越えたい壁を睨みつけて頑張ったのかしら。どうでもいいけど義時さんの子二人、頼朝の息子達と年がめっちゃ近いのにどうしてそろって仲良くないのかしら。比企か? 比企のせいなのか?
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